福沢諭吉の恐るべき正体を徹底解説する


諭吉は侵略差別主義者だった


◎福沢諭吉は侵略主義者?
 福沢諭吉(1835~1901)といえば、読者はどのような人物を思い浮かべるだろうか。日本に民主主義・啓蒙主義の種をまき、近代化への道を切り開いた思想家。

『学問のすすめ』を著し、慶応義塾大学を開いた教育家。『時事新報』を創刊し、新聞界に「不偏不党」の精神をもたらしたジャーナリスト・・・・現在、彼の肖像が一万

円札に用いられているのも「偉人」としての肯定的評価が定着していればこそだろう。
 しかし、1970年代から現在にかけての思想史学界では、福沢に対して、まったく逆の方向での評価が流行している。すなわち朝鮮・中国に対する侵略主義者、日本人

以外のアジア人を蔑視した民族差別主義者といったものだ。
その観点から福沢を批判してきた論客の代表として安川寿之輔氏(現・名古屋大学名誉教授)があげられる。安川氏は福沢の思想の思想は侵略主義とアジア蔑視にあるとみ

なし、その思想に主導された以上、近代日本の歩みがアジアへの侵略にむかうのは必然であった、そして福沢が現在も偉人視されているということは現代日本もまた周辺諸

国侵略への志向を維持し続けているということだ、と説き続けている(註1)。
この主張ゆえに安川氏の説は反戦・護憲の旗を掲げる市民運動から歓迎され、自ら「不戦兵士・市民の会」理事を務めるだけでなく、多くの市民団体に招かれて今も講演活

動を続けておられる。
思想史学界に蔓延する福沢侵略主義者論、その根拠となっているのは岩波書店による現行『福沢諭吉全集』全21巻分のうち9巻分を占める『時事新報』論説だ。その中で

も特に悪名高いのは「脱亜論」(1885年3月18日初出)という表題の社説である。これは日本がすすんで西欧文明をとりいれているのに対して、支那・朝鮮の二国は

頑迷で儒教の専制主義にこだわり、西欧諸国から見れば野蛮な制度を残そうとしている。これでは二国とも西欧列強による支配を逃れえない。日本は彼らと同一視されるの

を防ぐために隣国との友誼を絶つ勇気を持たなければならない、というものだ。
さて、「脱亜論」は支那・朝鮮の状況を厳しく非難してはいるが、日本が支那・朝鮮を積極的に征服すべきだ、という主張は含んでいない。ところが『時事新報』論説には

、中国人を「チャンチャン」よばわりする漫言や、日清戦争のことを「豚狩の積りにて之を遇したる程の次第」というような社説が含まれており、その中に位置づけるなら

、『脱亜論』こそ、侵略戦争正当化・アジア蔑視の理論的主柱をなすものと読まれてしまうのである。かくして侵略主義者・民族差別主義者としての福沢諭吉像は論壇に定

着した。
ところでこの福沢侵略主義者論は『東日流三郡誌』問題とも無関係ではない。『学問のすすめ』冒頭の「天ハ人ノ上ニ人ヲ造ラズ人ノ下ニ人ヲ造ラズト云ヘリ」との言葉、

これは内容的には『アメリカ独立宣言』からの翻案という説が有力だ。だからこそ福沢も「云ヘリ」との語を添えている。
 ところが、かつて古田武彦氏により、この言葉は『東日流外三郡誌』から福沢が盗用したものだという説が唱えられたことがある(註2)。
その根拠の一つにされたのが、福沢侵略主義者論である。つまり、侵略主義者であり、民族差別主義者だった福沢の思想と、この言葉に示された平等主義とは馴染まない。

しかし、この言葉は福沢にとって他所(つまり『東日流外三郡誌』)からの借り物にすぎないとすれば納得できる、というわけだ。
もちろん、実際には逆で、『東日流外三郡誌』の偽作者・和田喜八郎の方が福沢の言葉を盗用したわけである。また、古田氏の福沢盗用説が発表された後、和田喜八郎が福

沢諭吉から和田家に当てられた書簡なるものを古田氏に提出し、それが慶應義塾大学から偽作として一蹴されるという一幕もあった(註3)。
その後、真偽論争の進展とともに『東日流外三郡誌』が和田喜八郎の偽作であることは完膚なきまでに明らかにされた。しかし、古田氏の説の根拠、すなわち『東日流外三

郡誌』「天ハ人ニノ上ニ・・・」の言葉と福沢思想が不整合だという主張には、明確な反論がなされることはなかった。

(1) 安川氏の福沢諭吉批判は『日本近代教育の思想構造』(新評論、1970)まで遡る。その後の安川氏の関連著作としては『福沢諭吉のアジア認識』(高文研、

2000)、『福沢諭吉と丸山眞男』(高文研、2003)などがあげられる。
(2) 古田武彦『真実の東北王朝』駸々堂、1990
(3) 斉藤光政『偽書「東日流外三郡誌」事件』新人物往来社、2006

◎福沢諭吉侵略主義者説の虚妄
さて、近年、思想史学界に蔓延する福沢侵略主義者論を根底からくつがえすような研究が現れた。平山洋氏(現・静岡県立大学助手)の『福沢諭吉の真実』(註4)である


平山氏は『時事新報』論説全体を分析の対象とした。福沢は1898年、自らの全集を編纂しているが、その中に『時事新報』論説はとられていない。その年、福沢は脳溢

血に倒れ、晩年は失語症に陥っていた。ところが『時事新報』主筆だった石河幹明の証言によると晩年の福沢はさかんに会話したのみならず、精力的に執筆していたという

。たしかに後天的失語症はリハビリにより回復できるものだが、福沢の高齢と病状を考えると石河の語る晩年の福沢の姿はきわめて疑わしい。
石河は1925年、1933年の二度にわたって福沢全集を編纂しているが、そこには『時事新報』論説が多数納められている。時に1933年版には福沢自身が筆をとっ

たとは考えにくい晩年のものも多く取られていた。戦後の1958年、現行『福沢諭吉全集』が編纂されたが、『時事新報』論説を収録するという石河の方針は継承された


『時事新報』論説に福沢の筆とは考えにくいものがあることは2001年、井田信也氏により指摘されたところである(註5)。
しかし、『時事新報』論説に福沢以外の筆になるものがあるとしても、それは福沢の意を受けての代筆ともみなしうるため、思想史学界では井田氏の指摘の重要性は理解さ

れていなかった。
平山氏は井田メソッドに基づいて『時事新報』論説の分類を進め、福沢真筆には侵略主義・民族差別主義的文言は特に見られないことを明らかにした。
安川氏らが槍玉にあげる「脱亜論」は福沢真筆であったが、これだけから福沢を侵略主義者・民族差別主義者よばわりすることが不当なことは先述した通りだ。
では、なぜ、石河編纂の、そして現行の全集に侵略主義的・民族差別主義的言説が多々見られるのか。それは石河が自分の書いた論説を福沢のものとして全集に収録したた

めと思われる。石河の証言で、晩年の福沢が驚異的な回復をしたとされるのも、石河自身の文章を晩年の福沢の筆といつわるためであったとすれば納得できるのである。
この平山氏の研究は安川氏らによる福沢否定論をその根底からくつがえすものといえよう。福沢否定論は別人の文章を福沢のものと信じ込まされ、虚像の福沢を攻撃し続け

ていたのである。
なお、石河が二つの論集を編纂した時期は日本の領土的拡張が大衆的支持を得ていた時代である。『時事新報』主幹時代の石河は結果としてその思潮を先取りしていたこと

になる。石河は自らの文章でも、その時流を予見していたものを福沢に仮託することが、すなわち福沢を讃えることになると判断したものであろう。
そして、その同じ文章が戦後、近代日本の歩みのすべてを否定する風潮が広まると、今度は福沢をおとしめるために「活用」されるにいたったわけである。

(4) 平山洋『福沢諭吉の真実』文芸春秋社・2004
(5) 井田信也『歴史とテクスト』光芒社・2001

◎安川氏の『東日流外三郡誌』支持
 安川氏は2006年発表の著書の「まえがき」冒頭で次のように述べている。
「本書は、語彙や文体から起草者を推定する“井田メソッド”による『福沢諭吉全集』無署名論説の筆者の再認定作業を行い、アジアへの侵略・蔑視や天皇尊厳を説く社説

は“民族差別主義者・天皇賛美者”の石河幹明らが起草した論説であるという誤った認定にもとづいて、新たな福沢諭吉の美化・偶像化をはかった平山洋『福沢諭吉の真実

』、井田信也『歴史とテクスト』の二著を、全面的な誤謬の書として批判したものである」(註6)
 つまり、安川氏は明確に平山・井田氏の著書(特に平山氏)を批判するために一書を著したわけである。ここに安川氏の危機感を見ることができる。
 そして、この著書において安川氏は次のように述べている。
「(前著読者から)『学問のすすめ』冒頭の“天は人の上に人を造らず人の下に人を造らず(と云へり)”は、これまで私自身もその説を踏襲してきた、諭吉自身が翻訳し

た『アメリカ独立宣言』にヒントを得て福沢が考えだした文章であるという定説的な理解を批判・否定する古田武彦『真実の東北王朝』(駸々堂出版)の関係部分のコピー

が送られてきたのである。青森県五所川原市のリンゴ農家の屋根裏から取り出された『東日流外三郡誌』ほかの『和田家文書』のなかに“天は人の上に人を造らず・・・”

の出典があるというのが古田の主張である」(註7)
「『東日流外三郡誌』と『真実の東北王朝』の引用箇所以外は未見・未読の私は、古田説を全面的に支持する資格はない。しかし(中略)これまでの「天は人の上に人を造

らず・・・」の出典についての定説的解釈(アメリカ独立宣言由来説)の私の踏襲を撤回して、古田説を基本的に支持する意向を表明しておきたい。理由は、定説的解釈を

踏襲しながら、長年にわたって消えなかった私の疑問が、古田説に依拠することでより合理的に解釈できるからである」(註8)
安川氏は同書で『東日流外三郡誌』と福沢の関係について「これ以上、私はこの問題について詮索する意思はない」と述べている。
古田説を基本的に支持すると表明しながら、その根拠となる史料について詮索しないというのはそれだけで無責任な話である。
さらに安川氏は2006年9月2日、横浜市で開催された「教科書・市民フォーラム発足記念集会」で講師となり、『学問のすすめ』序文に関する古田武彦説と『東日流外

三郡誌』真作説を支持する発表を行っている(註9)。
さらにその同時期、安川氏は古田氏と会見したことを古田氏の支持組織が発表している(註10)。
また、年末には古田氏が編集する雑誌『なかった』にも安川氏の著書の抜粋が掲載された(註11)。
古田説を「全面的に支持する資格はない」はずの安川氏がいつのまにか積極的に古田氏を支持し、その広告塔まで務めるにいたったのである。すでに安川氏の知的誠実さは

失われたものともみなしてよいだろう。
 なお、問題の安川氏の著書については、すでに平山氏の詳細な反論が発表されている(註11)。ちなみにその中で平山氏は『東日流外三郡誌』について「この文書は完

全な偽書であると安本美典編『東日流外三郡誌「偽書」の証明』(廣済堂出版・1994年)は主張している」と一蹴している。
 
(6) 安川寿之輔『福沢諭吉の戦争論と天皇制論』高文研・2006、「まえがき」iページ。
(7) 安川同書、366~367ページ。
(8) 安川同書、369ページ。
(9) QUE「福沢諭吉と田中正造―近代日本の光と影」
http://blog.so-net.ne.jp/JesusLovesYou/2006-09-02
(10)古賀達也「古賀事務局長の洛中洛外日記」
http://sinkodai.typepad.jp/blog/2006/09/index.html
(11)古田武彦直接編集『なかった 真実の歴史学』第2号・ミネルヴァ書房・2006年12月
(12)平山洋「『福沢諭吉の戦争論と天皇制論』の逐語的註」
http://blechmusik.xrea.jp/d/hirayama/h29/

◎市民運動が偽書宣伝の場に
 安川・平山論争は一応、現在も進行中ということになっている。しかし、2007年1月現在のWikipediaには次の文言が見られる。
「第2世界大戦後の福沢批判者が依拠している、侵略的絶対主義者福沢諭吉とは、実は石河幹明自身のことにすぎない、と平山は主張する。その主張が正しいかどうかを、決

定的に証明することは困難である。福沢がある無署名論説に関与した、という証拠は見つけ出すことができるかもしれないが、無関与だった、という証拠を提示することは

難しいからである。しかし、平山の主張が正しいということを、ある程度推測することまでは可能である。それは、福沢が署名入りで発表した、『福沢諭吉全集』の第7巻ま

での著作に、現在なお福沢を批判し続けている、安川寿之輔・遠山茂樹・子安宣邦・鹿野政直・ひろたまさきらが依拠する問題論説が、“含まれていない”、ということに

よってである」(註13)
私もこの評価は妥当なものと考える。安川・平山論争の学問上の決着はすでについていたのである。さらに安川氏はすすんで偽書の宣伝塔になることで自らの学問的水準を

露呈したものといってよいだろう。
 平山氏が石河のものとみなした論説について、安川氏はそれが福沢のものとみなす根拠としてしばしば石河の証言を用いる。これは古田氏が『東日流外三郡誌』真作説の

根拠にしばしば和田喜八郎の証言を用いたことを連想させる。古田氏と安川氏が接近するのは、あるいは必然だったのかも知れない。
さて、『学問のすすめ』序文と「脱亜論」は古田氏や安川氏がいうほど思想的に相容れないものなのだろうか。
明治15年(1882)、福沢は朝鮮独立の志を持つ金玉均・朴永孝を迎え、慶応義塾大学への留学を認めた。以来、福沢はかの国の独立派の人々と親交を結ぶことになる


その後の日韓併合(1910)にいたる流れを知る者は誤解しやすいところだが、当時、朝鮮は清国の朝貢国であり、日本はむしろ清国からの独立を支援する勢力とみなさ

れていたのである。明治17年、朝鮮独立派はソウルでクーデターを起こす(甲申事件)。
ところが朝鮮政府は清国の軍隊を呼び込んでクーデターを鎮圧し、金や朴ら独立派を捕らえて残忍な処刑を下した。つまり清国はクーデターを利用して朝鮮への支配力を強

め、さらに朝鮮政府は自らの手で独立への芽をつんでしまったのである。さらにそれによりこの両国の国際的信用は大きく失墜することにもなった。
福沢の「脱亜論」での支那・朝鮮に対する厳しい物言いはこの成り行きへの失望によるものであった。福沢は朝鮮の独立を期待していた。だからこそ朝鮮政府がその期待を

裏切ったという失望は大きかったのである。日韓併合の時に福沢が存命だったなら、それはかつての清国が犯したのと同様の暴挙と断じたことだろう。そもそも、福沢が侵

略主義者・民族差別主義者であったなら、朝鮮独立派の人々が彼を尊敬し、親交を結ぶことはなかったに違いない。この文章について、同時代的背景から切り離して個々の

言辞をあげつらっても誤解を生じるだけだろう。
『学問のすすめ』では、「天ハ人ノ上ニ」の言の後には次の文が続いている。
「サレドモ今広クコノ人間世界ヲ見渡スニ,カシコキ人アリ,オロカナル人アリ,貧シキモアリ,富メルモアリ,貴人モアリ,下人モアリテ,ソノ有様雲ト泥トノ相違アル

ニ似タルハ何ゾヤ」
 つまり、本来平等であるはずの人間に実際には賢愚・富貴の差が生じている。その差を克服するためには一人一人が学問に志し、努力することが必要だ、というのが、『

学問のすすめ』の主張であり、その枕として冒頭の文章が置かれているのだ。
 この『学問のすすめ』の思想を国家レベルに当てはめたものがまさに「脱亜論」の主張ではないか。日本は西欧に進んで学ぶことで西欧に抑圧された現状を克服しつつあ

る。支那(清国)・朝鮮もそうなる可能性があったにも関わらず、自らその希望を断ち切ってしまった。これでは日本も隣邦としての友誼を保ち続けることはできない、と

いうわけだ。
『学問のすすめ』冒頭と「脱亜論」が矛盾するというのは、前者を『学問のすすめ』全体の文脈から切り離し、後者を歪められた福沢諭吉像の中に位置づけることによって

生じた誤解にすぎないといえよう。
 したがって「脱亜論」を根拠に『学問のすすめ』冒頭が福沢思想にそぐわないというのは不当であり、その真の出典に『東日流外三郡誌』を持ち出す必要もないのである


 なお、1970年代に刊行された市浦村版『東日流外三郡誌』には「人の上に人を造らず人の下に人を造らず」といった言葉は見えるが、福沢諭吉の名はまだ登場してこ

ない。
 和田喜八郎は人口に膾炙した言葉をその出典も気にしないでつい使っただけと思われる。ところが、谷川健一氏や故・松田弘洲により、この言葉が福沢からの盗用である

ことが指摘された(註14)。
 そこで和田喜八郎は福沢諭吉が『東日流外三郡誌』からこの言葉を引用したという話を新たに捏造した。それを古田氏が(さらに安川氏が)真に受けてしまったというわ

けだ。
 1991年の時点で和田喜八郎にだまされた古田氏はともかく、『東日流外三郡誌』が偽作である証拠が出揃った2006年にもなって古田説を支持した安川氏は迂闊と

いう他ないだろう(それとも自説の傍証に使えるものなら史料としての真偽は問わないということか)。
 なお、安川氏は「交通費さえいただければという条件での個人的な市民運動として、福沢諭吉の見直しの講演・(集中)講義・授業の出前活動は続けている」(註15)

「各地からの出前のさらなる注文を期待したい。とりわけ若者向けに、高等学校・大学の教員からの、一コマでもいいから、講義・授業の無償代行の申し出を期待したい」

(註16)と述べている。
 しかし、これは市民運動の名を借りて学問的にすでに敗北した説を存命させようという悪あがきではないだろうか。さらに安川氏が教材に『東日流外三郡誌』を用いるな

ら、その講演・講義・授業はそのまま偽書宣伝の場になるわけで、社会的には害悪でしかない。
 安川氏は、自らを反体制に位置づけておられるのであろうが、その福沢諭吉論は戦前の日本のすべてを軍国主義として否定するという戦後の風潮におもねっているにすぎ

ない。
 高名な「学者」が無償で講義・講演・授業するからといって、その場が偽書の宣伝に用いられたなら、社会的評判を失うのは主催した団体の方である。好意を装って社会

運動を食い物にし、結果として経済的被害よりももっと大きなダメージを与えかねない曲学阿世の徒に、市民運動団体の方でも警戒すべきだろう。
 なお、余談だが、『学問のすすめ』冒頭とともに、福沢諭吉の言葉としてよく知られたものに「諭吉心訓・七則の教え」なる人生訓がある。ところがこれも『時事新報』

論説の多くと同様、別人の作が諭吉に仮託されたものらしい。そのあたりの事情については清水義範氏が小説の題材として扱っている(註17)。

福沢諭吉のした事

天皇一族は売春業者

 19世紀初頭、世界帝国を建設しようと考えた英国はアジアに対し、アヘン=麻薬を売り、アジア人に英国に対する抵抗心を喪失させ、アヘン売買の利益でアジアを支配

するための兵器を買う戦略を採用する。

英国のアヘン売買の中心となったのが、銀行ジャーディン・マセソンであった。マセソンは、英国がインドでアヘンを買い付ける資金を提供し、中国、日本にアヘンを運搬

する船の建設費を出し、アヘンの売り上げはマセソンの銀行口座に振り込まれ、その資金で中国、日本を攻める兵器が購入された。兵器の代金は、マセソンの銀行口座で決

済された。

マセソン、中国では香港に香港上海銀行(現在の中国の中央銀行)を支店として置き、日本では東京に日本銀行=日銀を支店として創立した。日本政府の井上馨、渋沢栄一

に「命令」し、ノウハウを教え、日本銀行を創立させたのは、麻薬銀行マセソンのアレクサンドラ・シャンドである。

日本の中央銀行、日銀は麻薬銀行として創立された。しかし中国と違い、日本では麻薬は売れなかった。

困ったマセソンは、福沢諭吉と天皇に相談し、日本人女性を誘拐し「売春婦」として海外に「販売」する事にした。

貧しい農村の女性には海外で豊かな生活が出来るとダマシ、良家の娘達には洋裁学校を紹介するとダマシ、天皇と三菱財閥は日本人女性を「売春婦」として、海外に売り飛

ばした。

天皇と三菱の経営する船会社、日本郵船がダマサレタ女性達を売春婦として海外に運んだ。大部分が処女であった日本人女性達は、船の中で「売春婦」として教育するため

、英国人水夫達に毎日、強姦輪姦された。これは天皇の「命令」である。

天皇がダマシ、売春婦として海外に売り飛ばした日本人女性の数は、50万人を超える。大くの女性は、20歳代で梅毒等の性病で死に、または刃物で自分の喉を突き刺し

て自殺した。

天皇一族の財産はこうして作られた。

http://alternativereport1.seesaa.net/article/50371493.html

高校教科書『新詳説・日本史』の一節から引用する。

「日本の商社活動が活発となり、横浜正金銀行が積極的な貿易金融を行った。(略)また、海運業奨励政策によって、日本郵船会社などの手で、次々と遠洋航路がひらかれ

ていった。(注)日本郵船会社は、三菱会社と半官半民の共同運輸会社との合併によって1885年に設立され、1893年にはボンベイ航路、1899年にはヨーロッパ、アメリカ、

オーストラリアへの各航路がひらいた。」

日本郵船の大株主は天皇家と三菱財閥であった。
アメリカへ大量の移民を運んだのは、この日本郵船の船であった。

<中略>

天皇家と日本郵船の深い関係は、明治時代から続いていた。
この会社の船で娼婦たちが海外に「進出」させられた。
詳しくは山田盟子の『ウサギたちが渡った断魂橋』に書かれている。

日本の偉人中の偉人と評価の高い福沢諭吉は、

「賤業婦人の海外に出稼ぎするを公然許可するべきこそ得策なれ」

(『福沢諭吉全集』第十五巻)と主張した。

娼婦を送り出す船会社が、天皇家と三菱に大いなる利益をもたらすということを計算したうえでの「得策なれ」の主張であった。

「至尊の位と至強の力を一に合して、人間の交際を支配し、深く人心の内部を犯してその方向を定る」

福沢諭吉の思想は当時の天皇家に迎えられた。

至尊の位(天皇)と至強の力(三菱)を一に合して、日本郵船は発展していった。日露戦争後、アメリカ移民が増えていった。1908年ごろには、約十万人の移民がアメリカ

にいた。

1901年、共産主義者の片山潜は、小冊子『渡米案内』を発行した。一週間に二千部売れるほどの当時では大ベストセラーとなった。 片山は、アメリカでの移民生活をベタ

ほめした。日露戦争のころ、アメリカに行くのに約二百五十円の大金が要った。現在、日本に密入国しようとする中国人が、中国マフィア(蛇頭)に支払うくらいの金額だ

った。
やっとアメリカに渡ったものの、新聞や雑誌や『渡米案内』の甘言広告とは違い、辛酸の極みの生活が移民を待っていた。

男たちは鉄路の重労働やタマネギ畑で働かされ、女たちのほとんどは娼婦の館にほうり込まれた。

このときの莫大な金は、福沢が言う「至尊の位と至強の力」すなわち、皇室と三菱の懐に入った。

片山潜は、天皇が支配(大株主)する横浜正金銀行(旧東京銀行の前身)から金を貰って生活していた。当時の日本共産党幹部たちが、ニューヨーク、ロンドン、モスクワ

と流れていったが、そのほとんどの金は、この銀行が出したのである。元社会党委員長鈴木茂三郎もこの銀行から金を貰った一人である。

http://d.hatena.ne.jp/rainbowring-abe/20060825

1885年、天皇一族と三菱財閥で日本初の船舶会社

日本郵船が創立される。

明治維新により富国強兵の道を歩み始めた日本は、欧米からあらゆる兵器を購入し続けていたが、欧米への支払いに当てる資金が日本には無かった。

そこで福沢諭吉は、

「賤業婦人の海外に出稼ぎするを公然許可すべき」

という指示を天皇に与える。賤業婦人つまり売春婦として日本人女性を海外に「輸出、 売却」し、兵器購入資金を作るというプランであり、天皇一族はこのプランに飛び付

き実行する。

(福沢諭吉全集 第15巻)

1900年初頭から天皇の命令の下、

「海外に行けば良い仕事があり、豊かな生活が出来る」

という宣伝が日本全国で大々的に行われた。

日本の健全な家庭に育った当時の若い女性達は天皇の言葉を信じた。

天皇一族によりだまされ「売春婦として欧米に販売された」日本人女性の数は数十万人。

大部分は健全な家庭に育った若い女性達であり、天皇は「健全な女性を売春婦」として「売却」する事で、欧米の売春業者から女性1人あたり数千円、当時普通の会社員で
あれば10数年分の給与を手に入れていた。

その金額が数十万人分=莫大な資金がこの天皇一族のサギ行為、女性の人身売買により天皇一族に転がり込んだ。 その資金の一部は戦争のための兵器購入に当てられたが、
大部分は天皇の「個人財産」として「蓄財」された。

天皇一族は自分の金儲けのために、健全な若い日本人女性をだまし、売春婦として欧米に「売却」して来た。

天皇一族は欧米の売春業者とタイアップした日本の売春業者であった。

天皇により経営される日本郵船により、欧米に「売却」された日本人女性は、1人残らず現地に着くと即座に売春宿に「連行」され監禁された。そして売春を強制された。

初めての外国であり、逃げ場も助けてくれる相手もいない。
数十万人の日本人女性が、天皇によって売春を強制された。

これが従軍慰安婦の原型である。

日本郵船の共同経営者三菱財閥もこの売春業で巨大化した。
この莫大な富を生む売春業に参加させてもらったお礼に、三菱財閥は昭和天皇の結婚後の新居を、全額三菱財閥の出資で建設する。

渋谷区下渋谷の第一御領地の「花御殿」が昭和天皇の新婚の住居であり、それは数十万人の日本人女性を「売春婦として販売した」利益で、三菱の天皇に対する「売春業参

加のお礼」として建設された。

(山田盟子「ウサギたちが渡った断魂橋」 新日本出版社)。

また天皇が大株主であった船舶会社商船三井も天皇と協力し、同一の「売春婦・輸出事業」に従事する。 こうして日本人女性の「販売業者」として天皇一族が蓄積した財産

は、第二次大戦後日本に進駐してきた

米軍GHQの財務調査官により調査され、当時の金額で1億ドルを超えると記録されている。

国民に対しては「自分は神」であるとしていた天皇は、女性の人身売買で金儲けし、また日清戦争、日露戦争で中国、ロシアから得た賠償金を自分の私財として「着服」し

ていた。

戦争中全ての日本人は餓死寸前の中、軍需工場で「無給」で重労働を行っていた。
そうした重労働と日本人男性=軍人の死によって戦争によって得られた賠償金を、国民のためでなく自分の私的財産として天皇は着服し、密かに蓄財していた。

また日本軍が朝鮮、中国に侵略し、朝鮮人、中国人を殺害し略奪した貴金属は、天皇の経営する日本郵船によって日本に運び込まれ、日銀の地下金庫にある天皇専用の「黄

金の壷」という巨大な壷に蓄財された。

中国、朝鮮から略奪された貴金属、そして賠償金=侵略戦争 は天皇の個人的蓄財のために行われていた。

この問題を調査したエドワード・ベアは、「天皇一族は金銭ギャングである」と吐き棄てるように語っている。

(エドワード・ベア「天皇裕仁」 駐文社)

1945年、日本の敗戦が決定的になると、天皇一族はこの蓄財を米国に「取られる」事に恐怖を感じ、海外に蓄財を「逃し」始める。

天皇の個人銀行でもあった横浜正金銀行を通じて、スイスに850万ポンド、ラテンアメリカに1004万ポンド等、広島、長崎に原爆が落とされ死傷者が苦しんでいる最

中、天皇は自分の蓄財を海外に次々と逃がす事に専念する。この問題を調査したマーク・ゲインは、海外に天皇が逃した蓄財は累計で5~10億ドルに上るとしている。

(マーク・ゲイン「ニッポン日記」 筑摩書房)。

広島、長崎に原爆が落とされ膨大な死傷者が出、戦後日本をどのように再出発させるかを考えなくてはならない時期に、天皇はひたすら自分の蓄財を守るため数百回に及ぶ

海外送金を繰り返していた。

日銀の地下金庫からは、莫大な金塊と貴金属が日本郵船により運び出され、アルゼンチンの銀行そしてスイス銀行まで遠路運搬されていた。

中国では日本に逃げ戻るための船舶が無く、逃げ遅れた日本人女性が中国各地で多数強姦殺人され子供が殺害されている最中、天皇は貴重な船舶を独占し、自分の金塊を遠


アルゼンチン、スイス等に運び出していた。

天皇が自分の蓄財だけしか頭に無く、日本人の事など何も考えていない事は明白である。

(ポール・マニング「米従軍記者が見た昭和天皇」マルジュ社)。

なお天皇が第二次大戦中「売春婦輸出業」を行っていた商船三井の共同経営者が、CIA(当時はOSS)の対・日本作戦部長マクスウェル・クライマンであるのは何故な

のか?

敵国のCIA対・日本作戦部長と「仲良く」天皇が「売春婦輸出業」を行っている=天皇はCIA工作員であったのか?

天皇は戦後、このスイス銀行に預けた金塊を担保に資金を借り、CIAが事実上創立した不動産業者=森ビルと共に、港区の不動産を次々に買収し、またハイテク産業に投

資し、莫大な蓄財をさらに莫大に膨れ上げさせて行く。
天皇は神でも「象徴」でもなく単なる金儲け主義の金融ビジネスマンである。

そしてここでも「何故か」CIAと天皇は「共同経営者」である。

天皇は、1940年代初頭からスイス銀行に少しずつ蓄財を「移し」始めるが、ヨーロッパにおいてナチス・ヒトラーが虐殺したユダヤ人から奪った貴金属を管理していた

のもスイス銀行であった。

天皇はヒトラーに請願し、ナチス・ヒトラーの口座の中に「天皇裕仁」のセクションを作ってもらい、そこに天皇一族の蓄財を隠していた。

天皇とヒトラーはスイス銀行の秘密口座を「共有」する略奪ビジネスのパートナーであり、ナチスと天皇は一体であった。

(アダム・レボー 「ヒトラーの秘密銀行」 

ベストセラーズ・・また濱田政彦「神々の軍隊」 三五館)。

1924年、米国は「排日移民法」という法律を成立させる。
日米関係はまだ険悪ではなく、日本から余りに多数の若い女性が「売春婦」として米国に「輸入」されてくる事が社会問題化し、それを禁止した法律であった。

天皇自身の発言を記録した「昭和天皇独白録」

(藤原彰「徹底検証・昭和天皇独白録」 大月書店)の「大東亜戦争の原因」=日米戦争の原因の項目に、1946年3月18日の天皇の発言として以下の言葉がある。

「米国のカリフォルニア州への移民拒否については、日本を憤慨させるに十分なものであった。」

この発言は日米戦争の原因についての天皇自身の発言である。

日本人女性をだまし、売春婦として米国に「売却」する天皇の売春ビジネス=移民を米国が禁止した、それに憤慨激怒し米国と戦争を始めたと天皇自身が独白しているので

ある。

天皇一族は神でも「象徴」でも無く、人間のクズの集団である。

追記・・例え殺されても自分の命と引き換えに真実を語るのがジャーナリストの仕事である。

天皇に欺かれ売春婦にさせられた数十万人の日本人女性達の無念の人生のために、誰かが真実を語らなければならない。

http://www5.diary.ne.jp/logdisp.cgi?user=521727&log=20070607

人身売買と近代日本の成立 

自国女性を海外に売るのが「ロイヤルビジネス」だった

「からゆきさん」と呼ばれたどちらかといえば普通の「娘の身売り」の陰には、さらに悪質な詐欺的人身売買が、国策として、天皇のロイヤルビジネスとして、白人商人と

連携して組織的に、国策会社日本郵船(=三菱)により、大々的に行われていた。

そして、その人身売買こそが、日本資本主義の原初的蓄積過程だった。

つまり、近代日本国家は自国女を売って成立した。

「オルタナティブ通信」などを通じて知るようになったこの事実ですが、まとまった知識を持った人をTwitterで見つけました。

http://twitter.com/urashima2

戦前の日本は民族差別に反対してたとか言ってる方がいまだに多いが、実際のところは人身売買する上で邪魔だったというのが大きな理由のようだ。そもそもアメリカが排

日移民法を作らざるを得なかったのは日本からあまりに膨大な日本人女性が売られてきたからにほかならない。

戦前の日本が差別を許さないとか、プロパガンダにもならない妄想…。

世界最大の賤業婦人(売春婦)輸出大国だったのに。

それも騙して海外へ連れ出すという極悪非道ぶり。

いわゆる「からゆきさん」なんてハイカラな名称付けられているのが、それ。

ジャパゆきさんは自分の意志でオーディション受けて、どういう場所で働くか承知で来るかも知れない、からゆきさんの大半は国策として騙された人や誘拐・拉致同然に連

れだされた方々なのでまるっきり違う。

からゆきさんと言っても中国だけじゃない。

世界中に貨物船の片隅に押し込められ売られており、明治から昭和にかけて、その数は30万人以上とも言われている。

戦争責任を追求する大手マスコミでさえ、からゆきさんについては非情に及び腰。

理由はロイヤル・ビジネスだから。

おもに日本郵船=三菱と組んでいるが、三菱といえば岩崎弥太郎。

岩崎といえば龍馬。龍馬といえばグラバー。

グラバーといえば武器商人…ってな具合に背後は真っ黒の助。

そもそも武器を買うための資金として人身売買をはじめた。

グラバーといえばマセソン商会の元社員で代理人。

マセソンといえばアヘン商人。

ようするに茶を買うためアヘンを売るのが、武器を買うために女性を売る…にかわっただけ。

長州ファイブを留学させたのもマセソン商会。

岩崎=長州閥=天皇家は一蓮托生でアヘン・武器商とつるんでた。

騙して日本人女性を売った金で武器を買う。

その両方でピンハネすればボロ儲け。

三菱財閥が巨大化した最大の理由が人身売買…

などとは歴史の教科書や社史にも出てくるわけない。

人身売買であげた利益で武器を買い、それで戦争を行っては国民を虫けらのように死なせた。そういうビジネスを明治以来一貫して下衆なアヘン・武器商人と結託しながら

やってきた。宗教も人種も違う連中を奴隷貿易するでもなく、自国の同胞女性を詐欺まがいに海外へ大量に売り飛ばすという豪快なことをしていた日本。

さうがの毛唐も

「オーマイガッツ!

ジャップのやつ正気の沙汰とは思えない。

オークレイジー」

なんて驚いたことだろう。

そういう背景により、クレージーなジャップによる人身売買を阻止するため、アメリカは排日移民法をつくってくれた。それを、差別だとかいうのだから凄い。

戦争の原因について

「カリフォルニア州への移民拒否については、 日本を憤慨させるに十分なものであった」

とは裕仁天皇のお言葉。これが戦争の原因なのだというから素晴らしい。

戦前の国策による人身売買の実態を隠蔽するため「からゆきさん」と混同されるようにイメージの偽装転換が巧妙になされている。実際はからゆきさんなんてレベルをこえ

た国策の人身売買が壮大なスケールで行わていた。

本来の「からゆきさん」なんてのは九州の貧しい農村部の女性が女衒に連れられアジアの娼館で働くというものだが、日本郵船とかがやってたのは基本的に詐欺。

「海外で教養を身につけよう」

「あこがれのアメリカで働こう」

なんてかんじで良家の子女から寒村にいたるまで処女を集めた。

私もこのブログで、アメリカの人身売買報告書が日本に異常に厳しいことを人種差別ではないかと批判したことがありましたが、見当違いだったかもしれません。

彼らは当然ながらこういう過去の事実を知っている。この件の被害者は日本人であり、欧米商人も関与していたので、あえて言挙げはしないが、日本国がこういう体質をも

っているということには留意している。このような過去の犯罪行為について、日本人がほとんど知らされておらず日本国内に批判も反省もないことも見ている。

普通に「人身売買を防止する」という観点から見て、日本が要警戒国になるのは当然ですね。

これから必然的に貧しくなっていく日本ですが、日本女性は日本国家および天皇一族を警戒したほうが良いといえます。同時に、従軍慰安婦問題や南京強姦事件で騒いでく

れる近隣国の人々に感謝しなければならない。被害者が日本人だけなら、誰も騒がず、語ろうとする者は口封じをされ、そんな過去はなかったことになります。

天皇と三菱とが一体になり、外国商人と連携して、国策でこのような犯罪行為を行った歴史が「なかったこと」にされている。何の反省もない。

このままでは、日本国家にカネが必要なときにはまた同じことが繰り返されることになるでしょう。

日本国=天皇=三菱等、

はその成立時から人身売買マフィアであり、芯から腐っていると言えます。初めから腐っているものはどうしようもありません。「日本の解体」が是非必要です。

http://kuantan-bin-ibrahim.blogspot.com/

あめゆきさんの歌、山田わか

 日系アメリカ人の歴史の本を読んでいた時に、

「アメリカの日本人の嚆矢(はじまり)は日本人売春婦」

という記述に出会って、愕然としたことがある。

 コロラドに、江戸時代の日本人売春婦の墓標が残されているそうだが、日米和親条約(1853年)が締結される以前の話である。日本から、アメリカに直接に向かうことが

できなかったので、アジアを経由して、密航者としてアメリカに渡ったらしい。

 この女性たちの歴史の発掘に尽力されたのが、サンフランシスコの日本語協会の石崎五郎さん(UCデイビス校の獣医学の教授、故人)だった。石崎さんは、そうした女性

の存在を不憫に思われたようだ。 中国や東南アジアに渡ったからゆきさんのことは、森崎和江や山崎朋子の著作で知ってはいたが、そうした事実が、このアメリカでもあ

ったのだ。

 明治の新聞ダイジェストを読んでいた時に、オーストラリア行きの船の船倉で、日本人売春婦が窒息死体となって発見されたという記事を目にしたことがあるが、日本人

売春婦は、オーストラリアにも、密航させられていたようだ。 十九世紀末のアジアに渡った日本人売春婦を意味する”からゆきさん”という言葉から、山崎朋子(ノンフ

ィクション作家)が、”あめゆきさん”という言葉を作り、「あめゆきさんの歌:山田わかの数奇なる生涯」という本を書いたのが、1978年。

 プラムさんに、山田わかが働いていた場所を訊ねられた私は、シアトル時代の山田わかの手掛かりを求めて、この本を読み返した。 この本の記述とシアトル旧日本人街

明細図から、20世紀初頭に、彼女が白人相手の売春婦として働いていた場所が分かった。

現在のシアトル・アジア人街のあるインターナショナル・ディストリクトの一角だ。 私自身、以前、インターナショナル・ディストリクトを訪れた時に、山田わかはどこ

で働かされていたのだろうと、漠然とした疑問をもちながら、同地域を歩いていたのだが、今回、キング・ストリートと5番街の角のアロハ・ハウス(現在は別のお店になっ

ている)で働いていたことが分かった。

 1906年に、26歳で日本に帰国した山田わかは、近所に住んでいたことから平塚らいてふと知遇を得て、青鞜に参加。『朝日新聞』の人生相談の回答者になって、アメリカ

帰りの女流評論家として成功した。

 アメリカの図書館で、私は、戦前に発行された山田わかの本を2冊、見掛けたことがあるし、サンフランシスコで、彼女の夫となった山田嘉吉の教える英語塾で山田わかに

出会ったことがあるという人から話を訊いたこともある。 私が渡米した頃には、ヤングさんと呼ばれた日系一世の若手がまだ、生きていたのだ。ヤングさんは、英語の勉

強のために、サンフランシスコの山田嘉吉の英語塾に通ったようだ。

 山田わかのシアトル時代の記述については、サンフランシスコで発行された『あめりか新聞』(1937年)のオリジナルをUCLAのライブラリー(special collections

library)で読んだこともあるし、山崎朋子が出会ったリン(林)司書から、直接、お話を聞いたこともある。リンさんは、UCLAのアジア関係の生き字引のような方だった

が、1990年代の前半に退職された。

第二次世界大戦後、山田わかが心血を注いだ仕事に、売春婦の更生施設の建設、運営があった。 売春婦から更生して家庭人となった彼女だからこそ、更生が、いかに大切

であるかということを知っていたのであろう。

 私は、アメリカに住む日本人のことをリサーチしている理由の一つに、日本人は、アメリカから何を学ぶのだろか、ということがある。山田わかの場合は、不屈の向上心

だったのではないだろうか。

http://plaza.rakuten.co.jp/katiebooks/diary/200408240000/

昔アメリカで、ハロウィーンに英語もできないくせに白人様の真似をして調子こいていた馬鹿な日本人留学生が射殺された事件がありました。しかし、アメリカ白人がやっ

たことなので日本人は怒りません。その因縁のハロウィーンを、やがて日本人たちはアメリカ白人と一緒になって馬鹿騒ぎして祝うようになりました。

だいたい日本人に同胞意識などない。自分が白人様にでも引き立てられれば、黄色人種の同胞なんてクソみたいなものです。日本人で出世して偉くなる人はみんなそう思っ

ています。

天皇のロイヤルビジネスは、日本人の素人女性を騙して、日本郵船の貨物船に乗せて海外に性奴隷として売り、外貨を稼ぐというものでした。

日露戦争などの戦費もそれで出した。

同胞の日本人女でさえ騙して奴隷にして、船内で白人船員に強姦させて売春婦教育し、外国の売春宿に平気で売る事をしてきた日本人なので、朝鮮人従軍慰安婦の強制連行

や戦地や日本軍進駐先(前記事のタイにも進駐していた)での住民強姦など朝飯前のことです。

(そんなことを否定したり事実を争ったりする方がどうにかしています)。

日本はもともとそういう麗しい国なのです。なので、マトモな人間なら、日本人であれ外国人であれ、「反日」になるのが自然です。

明治政府の私設「広報官」である福沢諭吉は、『学問のすすめ』(8編・明治7年)の中で、

「男も人なり女も人なり。・・・其功能如何にも同様」

と宣言していたのですが、『差別の諸相』の注解者・ひろたまさきは、福沢諭吉の女性論は、「文明的な良妻賢母の要請を求める主張」であり、「娼婦的存在には同情を示

さなかった」といいます。

福沢諭吉は、その『品行論』において、

「そもそも娼妓の利害に就いては今更これを論ずるもの少なく、所謂道徳家の所望に任ずれば無き方が宜しと云ふは勿論のことなれども、人間世界は道徳のみの世界に非ず

。人類の身も之を二様に分かつときは、一方は人にして一方は禽獣に異ならず。・・・」

というのです。

「遊廓」は「人間世界には非ざるなり」と説く福沢諭吉にとって、その世界に身を置く「遊女」(娼妓)は、「人に非ず」、「人非人」に等しい存在としか見えなかったの

でしょう。

福沢諭吉にとって、「遊女」(娼妓)は、「人身の自由」が保障される「臣民」(人間)の対象外だったのでしょう。

福沢諭吉は、

「仮に今、人間世界に娼妓を全廃して痕跡おもなきに至らしめん歟、その影響は実に恐るべきものならん。」

といいます。 遊郭を廃止すると、数ヶ月を経ないで、「満都」に「獣欲」氾濫して、「良家の子女」がその餌食となるというのです。「遊女」(娼妓)が遊廓という苦界で

、うめこうが苦しもうが一向に構わないが、「良家の子女」がその被害にあうのは「社会の秩序」を守る上で無視できない・・・というのです。

福沢諭吉は、「遊女」(娼妓)は、「最も賤しく、最も見苦し」い存在であるといいます。

「其業たる最も賤しむ可く、最も悪む可くして、然かも人倫の大義に背きたる人非人の振舞いなり」と断定するのです。

『品行論』において、福沢諭吉は、売春制度に対する自らの主張を明らかにします。

「我輩は娼妓を廃せんとする者にあらず、却って之を保存せんと願」う

というのです。福沢諭吉は、諸外国から日本の遊廓制度に対する批判、「人身の自由」に対する批判があれば、それをさけるため、「深く之を隠すの注意なかる可らず。」

と提言します。

日本の公教育における歴史教育で、福沢諭吉はどのような人物として教えられているのでしょうか・・・。

「福沢諭吉は豊前中津藩(大分県)の士族で、緒方洪庵の適塾(大阪)で洋学を学び、幕末に欧米に留学し、イギリスの自由主義を学んだ。帰国後、慶応義塾を設立し、欧

米思想の紹介と教育に一生をささげた。」

(文英堂『くわしい学習事典・中学歴史の精解と資料』)と教えられているのではないでしょうか。福沢諭吉の顕彰は、紙幣に刷り込まれることによって、いまでも続けら

れているのはなぜでしょうか・・・。

http://eigaku.cocolog-nifty.com/jyosetu/2006/09/post_4f75.html

■福沢諭吉と慶応大が嫌いな理由。

そもそもアンチ論についてぐだぐだ述べるのは好きではありません。

でもコレだけは言いたい、と思ったので書きます。

福沢諭吉といえばあまりに有名な「天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らず」。

そう一万円札のあのヒトです。

学問のすゝめの著者であり、某K大の創始者であられる御大。

その福沢諭吉、をネット検索したくらいじゃ出てこないちょっと深いところのソースから引っ張ってきた文章をどうぞ。

福澤の男女同等論

福澤は、明治維新になって欧米諸国の女性解放思想をいちはやく日本に紹介し、

「人倫の大本は夫婦なり」として一夫多妻や妾をもつことを非難し、女性にも自由を与えなければならぬとし、女も男も同じ人間だから、同様の教育を受ける権利があると

主張した。

『男女平等、女性にも男性と同様の教育を』

うん、そうだね。現在に通じる平等の基礎。

…此処まではまだいいのですが。

福澤は、男女同等論を唱えながら存娼論者でもあった。

妾を養うことも芸者を買うことも隠してせよ、

と隠匿論を述べ、公娼制度を積極的に肯定し、『品行論』(明治18年12月出版)のなかでは「社会の安寧」「社会の秩序」のために公娼制度はぜひ必要であると主張してい

る。しかし、

その娼婦を称して

「其業たる最も賤しむ可く最も悪(にく)む可くして、然かも人倫の大義に背きたる人非人の振舞なりと云ふの外なし」

と罵り、隠れて遊べと言っている。

此処です。此処。

『愛人、売春婦とは隠れて遊べ。

社会のために(男性社会のために)売春婦を容認すべきである。

しかし売春業を行なうものは卑しく憎むべきであり、人の倫理に背いた人非人である』

と。なにこれ。

あー、何度読んでも腹立つ!

教育の権利だけが男女平等で、それ以外は???

人格的におかしいのではと思えるほど矛盾甚だしい。

実はコレ、wikipediaで福沢諭吉について以前書かれていた記事の一部分です。

とりあえず今現在wikiではこの引用の後半部分がきれいにまるっと削除されています。

それどころか著書『品行論』についての記事そのものがまるきり空っぽになっていて、不気味なかぎり。

まぁ、仕方ないのかとは思いますが。

巨大な後援会めいた存在が現代に残されていますしね。大学という形で。

深く詮索していくと、日本に巣くう恐ろしく根深い問題にまでたどり着いてしまいますのでこれ以上は此処では書かないことにしておきます。

しかしアカセンあったほうがいいけどそこに働く人は下賤である、だなんて。

教養ある人の発言とはおおよそ思えませんね。あなおそろしや。

一万円札は好きでも、あの肖像画はあんまり直視したくなくなること請け合いです。

福沢諭吉先生はアジア人が大嫌い

福沢諭吉は朝鮮や台湾の人びとのことをどう述べているか:

「朝鮮……野蛮国にして、……我属国と為るも……」、

「台湾蛮人……は禽獣……人の二人や三人を喰い殺すは通常……

朝鮮人は唯頑固の固まり」(本書121頁)

朝鮮は、野蛮な国であり、朝鮮人はただ頑固なだけであり、台湾人も野蛮で獣と同じなのだから、日本人が支配してあげるのが正しいことなのだ、という理屈であろうか。

「チャンチャン……皆殺しにするは造作もなきこと」……

「朝鮮……人民は牛馬豚犬に異ならず。」……

「土人を銃殺……狐と思ふて打殺したり」

「島民が反抗……一人も余さず誅戮(ちゅうりく)して醜類を殲(つく)す可し。」……

「支那兵……恰も半死の病人……之と戦う……豚狩の積りにて」

(本書160-161頁)

なんという人種差別か。 このような読むに耐えないようなアジア蔑視を披露している。……甲申政変の際にさえ

「京城の支那兵を鏖(みなごろし)に」

と発言した諭吉は、……日清戦争では中国兵や台湾住民の「皆殺し」「殲滅」「誅戮」をくり返し呼号するようになる。したがって、日本の兵士が平然と「殲滅」作戦を担

えるようにするためには、中国人・兵は「チャンチャン」「孑孑(ぼうふら)」「豚犬」「乞食」「烏合の草賊」の類であると教え、殲滅への抵抗感・抵抗意識を解除する

マインド・コントロールを用意することも必要であった。(159頁)

中国人は人間以下の動物だから、皆殺しにしてしまえ、というのだ。

なんという怖ろしい「啓蒙思想家」だろう。戦争にあたって、相手国の人間を、人間以下に描き出すことは、侵略する側のひとびとが決まって行なってきたことである。か

つてアメリカも、日本と戦争をするにあたって、日本人がいかに「人間以下」であるかをさまざまな方法でアメリカ国民に対して啓蒙した。

それにしても、これらの発言は、福沢に対するイメージを一変させるのではないか。

「目に付くものは分捕品の外なし。

何卒今度は北京中の金銀財宝を掻き浚へて、彼の官民の別なく、余さず漏らさず嵩張らぬものなればチャンチャンの着替までも引つ剥で持帰ることこそ願はしけれ。

其中には有名なる古書画、骨董、珠玉、珍器等も多からんなれば、凱陣の上は参謀本部に御払下を出願して一儲け……」

という私有物の強奪の勧めを書いた。さらに

「生擒(いけどり)」にした捕虜の「老将」軍を「浅草公園に持出して木戸を張り……木戸銭」をとり、

老将軍に「阿片煙を一服させると忽ち元気を吹返しましてにこにこ笑ひ出します」

という慰み物にして金儲けをする提案までした。」(163頁)

目についたものは、すべて分捕ってくるといい、などと言っている。 しかも、捕虜にした中国の老将軍を、浅草公園に連れてきて、見世物にしてしまおう、と言っている。

ここに見られるのは、「啓蒙思想家」としての姿ではなく、強盗・殺人を奨励する単なる「極悪人」の姿である。

「天は人の上に人を造らず人の下に人を造らず」

こんな言葉で知られる福沢の思想は、決して日本の民主主義の立役者でも何でもなかった。

「天」に代わって日本「人の上に」天皇制と「帝室の藩屏(はんぺい)」としての華族制度をつくりだした福沢諭吉は、

その日本「人の下に」被差別部落民の存在する事実になんらこだわることなく、

『東洋政略論』で日本「人の下に」アジア諸国民を置き、

百篇をこす論稿で男性「の下に」女性をおく家父長制的女性論を体系化し、

金持ち「の下に」貧乏人を位置づけた教育論を構築した。

たとえば、「今の世」で「最も恐るべきは貧にして智ある者なり」という考えに基づき、

“貧智者”の出現阻止のために官立大学を廃止して私学に改変することを主張したり、

学問・教育も一種の商品だから

金持ちが「子の為に上等の教育を買ひ」中等は中等の教育、貧民は下等の教育を購入する

という貧富に応じた複線型学校論を主張し、それを合理化するために、

豪農・豪商・旧藩士族の「良家の子弟(男子)は「先天遺伝の能力」をもつ

という遺伝絶対論も主張した。こうした貧民無視の罪滅ぼしに、

「馬鹿と片輪に宗教、丁度よき取合せならん」

と言って、貧民を宥(なだ)め眠らせるために、自らは信じない宗教の振興論を百篇以上書いた。(235頁)

筆者は、福沢諭吉を、「近代日本のアジア侵略思想とアジア蔑視観形成の最大の立役者の一人」と結論づけている。福沢諭吉を1万円札の肖像に使うことは、どのような意

味を持つのか。日本人が、いまだに、侵略戦争・植民地支配を真に反省していない証拠である。 福沢諭吉は、いまも、アジア蔑視の差別意識を、金銭の欲望とともに、日本

全国に流通させている。

福沢諭吉のアジア認識 安川 寿之輔

1.戦後福沢諭吉研究のいい加減さ-「民主主義の先駆者」の虚像

 1万円札の肖像、慶應義塾の創設者、『学問のすすめ』の著者、福沢諭吉は前向きのイメージで見られ、国民作家、司馬遼太郎の「明るい明治」の歴史観とも重ね合わせ

て、偉大な啓蒙思想家として教えられています。しかし、アジア諸国からは侵略主義者とみられ、たとえば台湾では「最も憎むべき民族の敵」と呼ばれているのも事実です

実は、民主的啓蒙思想家のイメージは、丸山眞男ら戦後の民主主義を追求をした学者たちが、福沢諭吉全集から自説に都合のいいところを、福沢の文脈とは無関係に抜き出

して作り上げた虚像なのです。

たとえば、丸山さんは福沢の天皇制論を「天皇は政治に関与してはならないと主張し、生涯それを貫いた」と述べましたが、

福沢は朝鮮の甲申政変の時は天皇の「御親征」を主張、

日清戦争の時は大本営を旅順に移し天皇の「海外出陣」さえ要求したのです。

天皇は「正宗の銘刀」であるから「深く鞘に収め」と言ったのは、抜きっぱなしでは効用がないから日常的には政治に関与すべきでないという意味でした。

また、『学問のすすめ』の

「一身独立して一国独立する」

は、

「個人の自由が確立しなければ国の独立はない」

と解釈されましたが、これは福沢研究史上最大の誤読です。

理想はそうだが、国の独立が最優先課題であるから民衆の自由の確立は「他日為す所あらん」、すぐにはできないと言ったのであり、やがて「自由民権運動」に出合うと「

一身独立」は放り投げ、逆に封建的な制度を擁護する側に回ったのです。

さらに、福沢は無神論者でしたが、民衆に対する啓蒙を放棄するや、

「馬鹿と片輪に宗教、丁度良き取り合わせ」、

すなわち民衆の支配には宗教が有効だとして、「経世の要具」としての宗教の必要性を100編以上の論説で主張したのです。丸山さんは福沢を「原理原則がある哲学をも

った思想家」と最大限に持ち上げましたが、上の例から福沢は原理原則に筋を通す思想家などではないことがわかります。

 なぜこのようないい加減な福沢研究が学問の名の下にまかり通ったのか。それは戦後の研究者たちが、民主主義の追求に目を奪われて、昨日まで続いていた日本の侵略戦

争、植民地支配の責任を放置し、日本にも「明るい明治」期には福沢のような先駆者がいたのだと、福沢を民主主義のチャンピオンに仕立てたのです。戦後の学問のいいか

げんさは戦争責任を忘却したことの結果であり、その罪は重いと言わねばなりません。

2.福沢諭吉の国際関係認識-侵略路線への逸脱

 福沢の幕末維新期の国際関係認識は「国家平等観」に立脚していたというのが定説ですが、これは丸山さんらが、福沢が建て前論として言った部分のみを取り上げて導い

た結論です。

福沢は国際関係を「傍若無人」、「切り捨て御免」、「無情残酷」、「パワーイズライト」と認識していました。

また同じ時期の、「台湾出兵」について

「こんなにお祝いすべきことはない」、

「そもそも戦争は国の栄辱の関する所、国権の由て盛衰の致す所」

と述べ、「江華島事件」では

「小野蛮国」の朝鮮が「来朝し、我が属国になるも我の悦ぶに足らず」

と述べました。先行の研究者たちは、こういった不都合な記述を全く取り上げることなく「国家平等論者」だと結論したのです。

 福沢は国際帝国主義の時代状況を「弱肉強食」の関係だと認識すると、『文明論之概略』の中で、自国の独立確保を至上最優先の課題に設定し、『学問のすすめ』の中で

「一国独立」は「国の為には財を失うのみならず、一命を擲ても惜しむに足ら」ない「報国の大義」だ

と書きました。上述したように丸山さんらは「一身独立して一国独立する」を読み間違えたのです。

さらに国の独立確保を最優先するためには

「…、君臣の義、先祖の由緒、上下の名分、本末の差別のごとき…文明の方便」

であるから積極的に活用しなければならないと、日本の近代が封建的なさまざまなものを取り組んでいく道を提示したことも極めて重要です。

 中期以降、先進資本主義国が社会主義や労働運動に直面し、「狼狽して方向に迷う」という現実認識が加わると、「富国強兵」ではだめで「強兵富国」でなければならな

いと唱え、「軍備拡大」、「対外侵略」路線へと踏み出して行きました。そして歴史的現実主義という名の「清濁併呑」路線、すなわち

「世の中そんなに急に変わらないから、民衆があほなら民衆のあほに依拠してやっていく」、

また「権謀術数」的な「内危外競」路線へと傾斜していきました。何よりも見事なのは、天皇制を「愚民を籠絡する詐術」、馬鹿な国民をたぶらかす政治装置だ、と見抜い

たことです。その一方で、軽率にも日本人は「完全な文明開化人」になったという宣言をし、「文明史観」の下での対外侵略の合理化を行い、同時代人から

「法螺を福沢、嘘を諭吉」

と非難されました。元外交官の吉岡弘毅からは、「我が日本をして強盗国に変ぜしめんと謀る」道のりは「不可救の災禍を将来に遺せん事必せり」と厳しくも適切な批判を

受けたのです。

3.日清戦争と福沢諭吉

 この時期、朝鮮の背後には中国がいるという理由で、一気に北京攻略まで要求し、あまりに激烈な開戦論のために、『時事新報』の福沢の社説は2度検閲で削除され、さ

らに『時事』は発行停止処分まで受けました。

リベラルなイメージから良識派と考えられがちですが、実像は明治政府を戦争へと誘導、先導する立場だったのです。

 「日本は日清戦争を経ずに近代化の路線を歩むことはできなかったか?」というのは大変に重要なテーマです。実は、当時の権力中枢、山縣有朋や井上毀らは、直接朝鮮

半島を支配する野望は持っていたけれども、国際関係等からいきなりは無理であろうから、暴力的にではあってもスイスのように「永世中立国」にすれば、朝鮮を中国の支

配からは離脱させられるという考え方をもっていました。日清戦争開戦1ヶ月前の閣議まで、日本が選びうる3つの選択肢の中には「朝鮮の中立化」は存在していたのです

。ところが

福沢は日中両国が違いに連携することなど「空想」だと切り捨て、終始一貫、対支強硬論と軍備拡大要求を続けていました。

明治政府よりも右よりで開戦へと誘導・先導する立場だったのです。

4.丸ごとのアジア蔑視と『暴虐のすすめ』

 福沢は侵略合理化のために「文明」という言葉を論説で乱舞させました。すなわち

他国の「国事を改革」したり「国務の実権」を握ることは内政干渉ではない、

「あいつらはばかだから、がつんとやらないとわからないのだ」

という厚顔無恥そのものの論理です。同時にアジアへの蔑視・侮蔑・マイナスの評価はこの時期から悪化の一途をたどりました。初期にもアジア蔑視観は出ていますが、た

とえば中国の民族的英雄林則除を「アヘンを焼き捨てた、思慮のない短気者」と侮辱したように、個々の政策を批判するだけだったのです。ところがこの時期になると、中

国は、朝鮮はと、丸ごと総体的に侮蔑する言葉を垂れ流すようになりました。

「朝鮮人…上流は腐儒の巣窟、下流は奴隷の群衆」、

「朝鮮は国にして国に非ず」、

「朝鮮…人民は牛馬豚犬に異ならず」、

「朝鮮人 南洋の土人に譲らず」、

朝鮮人は豚や犬だというのです。

「支那兵…豚狩りのつもりにて」、

「チャンチャン…皆殺しにするは造作もなきこと」、

中国人をやっつけることなど簡単なことだとはっきり書いています。後に日本軍はその通りのことをやったわけです。

中国人を「チャンコロ」呼ばわりすることを、彼は4回書いています。

このような聞くに堪えない侮蔑の言葉を垂れ流すさまは痛々しいとすらいえます。 『時事』の『漫言』では兵士に向けて

「…目につくものは分取り品の田無、なにとぞ今度は北京中の金銀財宝を書き更え…一儲け」

と戦時国際法が禁止する私有物略奪を呼びかけました。 「三光作戦」の勧めです。

 この時期、広島にあった大本営で90回におよぶ御前会議に立った明治天皇を賞賛し、福沢は海外出陣の可能性を提言しました。史実はその4ヶ月後に陸軍内で大本営を

旅順に移す案が出て、明治天皇も了解したのですが、知恵者の伊藤博文の反対で流産しました。また「靖国」の思想も先駈けて打ち出していました。

「死を鴻毛より軽しと覚悟」する「軍人勅諭」の「大精神」が勝利の「本源」
であり、

「…益々この精神を養うことこそ護国の要務にして、これを養うには及ぶ限りの栄光を戦死者並びにその遺族に与えて、もって戦場に倒るるの幸福なるを感じせしめるべか

らず」

と書きました。

 「朝鮮王宮占領事件」、「旅順虐殺事件」、「閔后殺害事件」、「台湾征服戦争」など日清戦争の不義・暴虐を象徴する事件について、ジャーナリストとしての福沢は終

始隠蔽・擁護・合理化・激励する最悪の戦争報道を行いました。

私たち「南京大虐殺」を追求する者にとって重大な意味をもつ「旅順虐殺事件」はアメリカやイギリスの新聞に大きく報道され、何よりも『時事』の特派員報告でも出たの

でした。しかし、日本が「文明の戦争」ということで世界に登場しようとしていた時期に、市民を含む2万人近い無抵抗の中国人を殺害したことは、伊藤首相と陸奥外相の

判断で不問に付すことになったのです、

福沢は虐殺を「実に跡形も無き誤報・虚言」と切り捨て事実隠蔽のお先棒を担いだのです。

その「結果、日本軍の軍紀には覆うべからざる汚点を生じ、残虐行為に対する罪悪感は失われ、その後この種の事件を続発させることに」なったと『日清戦争』の藤村道夫

は述べています。すなわち「南京大虐殺」にいたる道が敷かれたわけです。

5.「日本の近代化=アジア侵略」の「お師匠様」

 福沢は有名な『自伝』の中で、「明治政府のお師匠様」を自負していましたが、彼は「明治政府」に止まらず、アジア太平洋戦に至る日本の近代化の道の総体にわたる「

お師匠様」と位置づけるのが正しいと思います。アジア太平洋戦争の有名なキャッチフレーズ「満蒙は我生命線」は後の外相松岡洋右の演説ですが、その先駈けになったの

は福沢の「今、日本島を守るに当たりて最近の防御線は朝鮮地方たるや疑いを入れず」です。これは山縣有朋が同じことを主張するよりも3年早くなされたものでした。日

本が大東亜共栄圏の盟主だということも福沢は明確に主張しています。

 家永三郎は名著『太平洋戦争』の中で、「日本の民衆が15年戦争を何故阻止できなかったのか」の重要な要素として「隣接アジア諸民族への謂われのない区別意識」を

挙げていますが、この蔑視感の形成の先頭に立ってきたのが福沢だったわけです。そしてこの蔑視感は今の日本の有り様にも繋がっております。自分では「偽りにあらずし

て何ぞや」と冷静に認識しながら、天皇制を「愚民を籠絡するの詐術」と見抜くと、

天皇崇拝は「日本人固有の性」、

「一般の臣民…雖も帝室の為とあらば生命を惜しむ者なし」

とうそぶくしたたかさを持っていました。その福沢諭吉の力もあって「愚民を籠絡する」天皇制は日の丸・君が代とともに今なお健在です。このしたたかな福沢諭吉にどう

対抗し乗り越えるのか、それが私たちの課題として問われています。

◆私は、十五、六歳のころ、「何になりたいか」と兄に聞かれて、「日本一の金持ちになりたい」といった(「福翁自伝」).

? 金持ちになるためには、国民をだまして「金と命を出させて、近隣諸国の領土・資源・労働力・文化財を奪うことが必要だ」と考えた.

? そのためには、教育と報道で世論をつくることが必要であった.教育では慶応義塾を、報道では時事新報を創設した.

? そして台湾・朝鮮半島・中国全土を植民地化するためには、戦力を持ち、「国権を皇張すること」が必要と宣伝した.(1881「時事小言」)

? それが成功して、日清戦争(1894-1895)では、台湾の植民地化を達成し、同時にそれを報道した「時事新報」の発行部数を伸ばして、「金持ちになる夢」に大き

く近づいた.

諭吉は、天皇家の先生だった!

昭和天皇は、皇太子(2009年3月現在の天皇)の教育に小泉信三をあてました(1946年4月~1958年).

小泉信三は、福沢諭吉の「帝室論」を教材に、青年時代の現天皇の教育をおこないました(小泉信三「ジョオジ五世伝と帝室論」).

皇太子の家庭教師役を任命されたとき、小泉信三は慶応義塾の塾長(1933年~1947年)でした. 彼の父親も、慶應義塾の第二代の塾長(1887年~1890年)でした.慶応義

塾は、諭吉が創設し、第1代塾長は諭吉でした.
彼は、「政府の影のお師匠様」(注)であり、天皇家の先生でもあったのです.

(注)「福沢諭吉全集」(第20巻414頁)

「立君の政治」は「人主が愚民を篭絡するの一欺術」

(天皇制は「支配者が、バカな国民をだますための一つの詐欺的な手法である」)

(1881年「帝室論」福沢諭吉全集第5巻271頁)

小泉信三は、「そう指摘されたら、どう答えるか」を若き現天皇に教えていたのです.(注)

現天皇は、皇太子に何を教えたのでしょうか?

(注)

「福沢諭吉の『帝室論』を読むために、殿下も私も、それぞれ福沢全集の一冊をこの一隅に持ち込んだこともある」
 
「部屋の大きさは二十畳ぐらい」

「両陛下がお出ましになったときにもここへお通りになる」

「壁に寄せて直立ピアノが置いてある」

「皇太子殿下は主にその二階にお住居になっている」

(小泉信三「ジョオジ五世と帝室論」)

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天皇制は「支配者が愚民を篭絡するの一欺術」

(天皇制は「支配者が、バカな国民をだますための一つの詐欺的な手法である」)
(1882年「帝室論」福沢諭吉全集第5巻271頁)

天皇を頂点とする利権・既得権益の体系、それが「天皇制」の本質ではないか?

それは、天皇制を支持する人びとを見ればわかる.彼らは、何らかの権益をもっている.(反論できる人はいないようだ)

もう一つの証拠は、昭和天皇だ.彼は、終戦の詔勅(ラジオ放送)で、「ここに国体を護持し得て」といった.

天皇制の維持・存続の希望を出し、結果として戦争責任から逃れ、「日本国憲法」第1章に「天皇」を書き込ませたのだ.歴史に残る戦略家というべきではないか?

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「馬鹿と片輪(かたわ)に宗教、丁度よき取り合わせ」

靖国神社が作られた頃の諭吉の文章です.
(福沢諭吉全集 第20巻232頁)

諭吉は、靖国神社の本質をよく理解していた

「国民はだまされて、国のために死んでくれ!」

その諭吉を、一万円札の肖像として毎日拝ませる人たちがいる!

日本の「文化と伝統」は、「だまされること」ではないはずです!

http://hibari-yukichi.blogspot.com/2009/03/blog-post_14.html

「天皇が、ヤスクニ神社を参拝するべきだ」 (福沢諭吉)

「靖国神社の臨時祭には、辱(かたじ)けなくも天皇陛下の御臨席さへありて、・・・。 
・・・大に遺族のものに給与して死者の功労に酬ひん(むくいん)こと我輩の切望・・・」
(死者に厚くす可し」 

 (1895年 福沢諭吉全集 第15巻341頁)

(天皇陛下が、死者の功労に十分あつくむくいれば、遺族も悲しまないだろう. そうしてほしい. そうすれば国民は、天皇と国のために、喜んで死ぬだろう)

福沢諭吉の時代には、憲法は国の機関の宗教活動を禁じてはいませんでした.

http://hibari-yukichi.blogspot.com/2009/03/blog-post_15.html

英国もフランスも、人の土地を奪っている! 
(対中侵略15年戦争の諭吉の布石)

「今は英国もフランスも、競争して人の土地を奪っている」

「今は競争世界で、英国なり、仏国なり、・・・

皆吾れ負けじと、人の隙に付け入らんとするの時節なれば、理非にも何も構ふことはない、

少しでも土地を奪へば、暖まりこそすれ・・・遠慮に及ばぬ、「さっさ」ととりて暖まるがよい」

(1881年「宗教の説」福沢諭吉全集第19巻711頁 「福沢諭吉のアジア認識」299頁)

「支那と戦に及ぶこともあらば、・・・真一文字に進て其喉笛に喰付くこと緊要・・・北京、是なり」

(1882年 「喉笛に喰付け」全集第8巻260頁)

「支那国果たして自立を得ずして諸外国人の手に落ちることならば、我日本人にして袖手傍観するの理なし. 我も亦奮起して共に中原に鹿を逐わんのみ」

(1882年 全集第5巻313頁)

「朝鮮は固より論ずるに足らず、我目ざす当の敵は支那なるが故に、先ず一隊の兵を派して朝鮮京城の支那兵を塵(みなごろし)にし、・・・. ・・・両国の戦争となる

ことあらば、・・・日本の勝利必然なり」

(1884年 「戦争となれば必勝の算あり」(全集第10巻159~)

「目につくものは分捕品の外なし.

何卒今度は北京中の金銀財宝を掻き浚えて、彼の官民の別なく、余さず漏らさず嵩張らぬものなればチャンチャンの着替えまでも引つ剥で持帰ることこそ願はしけれ. 

其中には有名なる古書画、骨董、珠玉、珍器等も多からんなれば、・・・ 一儲け ・・・. 

・・・其老将等が、生擒の仲間で幸にまだ存命にてあらんには、・・・

之を浅草公園に持出して木戸を張り、・・・之に阿片煙を一服させると忽ち元気を吹返しましてにこにこ笑ひ出します、・・・御慰み」

(1894年 「漫言」全集第14巻570頁)

この諭吉の教えにしたがって、日露戦争(1904~1905)年の後、旧日本軍が「対中継続的侵略の決意」として、大連近郊より持ち帰った唐時代の文化遺産「鴻臚井(こうろ

せい)の碑」があります.

それは、1300年ほど前に作られた石碑で、その時代のその地方の唐の統治を示す歴史的な記念碑です(朝日新聞 2006年5月28日). おそらく、旧日本軍は、中国の統治を

日本が奪うという意思の確認のために、略奪して日本に持ち帰ったものと考えられます.

この碑は、明治天皇に献上され、21世紀の現在でもひそかに他の略奪物と共に、宮中に保管されています.

日本政府あるいは天皇家は、これらの文化財を含む略奪品を中国へ返還する意思を表明していません. まさか、永久に返還する意思はないということではないとは思いま

すが.

http://hibari-yukichi.blogspot.com/2009/03/1881711299.html

福沢諭吉:
 
「金と兵は有る道理を保護するの物に非ずして、無き道理を造るの器械なり ・・・
本編(1881年「時事小言」)立論の主義はもっぱら武備を盛んにして国権を皇張するの一点にあり。 

事情切迫におよぶときは、無遠慮にその地面(アジア諸国)を押領して、わが手をもって新築するも可なり」

(福沢諭吉全集第5巻108ページ~)

http://hibari-yukichi.blogspot.com/2009/03/blog-post.html

私(福沢諭吉)は、「暗に政府のお師匠様」であった

1897年8月22日「時事新報」(社主・福沢諭吉)から 

「王政維新の前後に日本国中の人が専ら老生の著訳書ばかり読んで文明の新知識を得たるは紛れもなき事実にして、或いは維新政府の新施設も拙著の書を根拠にして発表し

たるもの多く、暗に政府のお師匠様たりしことは、故老の忘れざるところなり」
(福沢諭吉全集第20巻)

その諭吉は、天皇制について「愚民を篭絡するの一欺術」といっています.(全集第5巻)

また、「馬鹿と片輪に宗教、丁度よき取り合わせ」といっています.(全集題20巻)

東京招魂社が、靖国神社になったころです.

「日本は天皇を中心に歴史が作られてきた. 
国が強くなることが大切、近隣諸国の領土・資源・労働力・文化遺産を奪いとれ.

天皇のため、国のためには、『カネ』も出せ、命も出せ!

死んだ後には靖国神社がある」 

諭吉は、国民を馬鹿と見て、これをだまして税金と命を取る、そのダマシのシステムが天皇制と靖国神社だと考えていたのでしょう.

真に賢い師匠でした.今の日本も、その師匠を一万円札の肖像として、毎日拝ませています.

ダマス者が賢く、国民は愚民!
それが、日本の伝統と文化でした.

___________

「天皇制は、支配者がバカな国民をダマスための一つの手段だ」 ─ 福沢諭吉の理解!

 「立君の政治」は、「人主が愚民を篭絡するの一欺術」 
(福沢諭吉全集 第5巻271ページ)

諭吉は、こう書いています.

「天皇制は、支配者がバカな国民をダマスための一つの手段だ」という意味です.(「そういわれたら、『それは、政治を知らない』と答えよ」といっています)

なぜ、彼はそう書いたのか?
それは、次の理由によります.

◆自分は金持ちになりたい.(「日本一の大金持ちになりたい」
これが、彼の少年時代の夢だった(岩波文庫「福翁自伝」)

◆金持ちは、多数の者の生命と財産の犠牲の上に可能となる

◆支配者が国民の生活を犠牲にして、初めて金持ちが可能となる

◆自分は、支配者の側に立ちたい.
門閥制度で一生下級武士はいやだ!

◆一方国民は、だまって生活を犠牲にはしてくれない.

◆だから、国民をだまさなければならない.

◆国民をだますためには、天皇制をもってくるのが一番よい.

◆天皇のために、命も財産も投げ出す.「お国のため、大義のために死ぬ」ということができる.
(若くして殺された特攻隊員がそうだった)

◆彼らと遺族が、がっかりしないように靖国神社(1879年)をつくっておこう.

◆自分は表向き、教育(慶応義塾)と新聞(時事新報)の責任者ということで行こう.

◆実際には「暗に政府のお師匠さま」(全集第20巻頁)として、侵略戦争を推し進め、そこで上前をはねよう.(実際に戦争報道で大もうけをした)

これが、福沢諭吉の真実です.

福沢諭吉は、少年時代の「大金持ちになりたい(福翁自伝)」夢を実現するためには、天皇制を支持したのだ.

◆「大金持ち」になるためには、略奪・侵略・殺戮・戦争が必要だ.

◆「お前たちが死んで、私たちが略奪物を取るから、戦争に行け」では、賛成してもらえない.

◆そこで、天皇制を利用しよう.

◆「私たちのため」ではなく、「天皇のため」「国のため」「大義のため」に死んでもらおう.

◆そのために、靖国神社も用意しておこう.「英霊になる」なら、死んでも文句はないだろう.

◆そこで、彼は、天皇制についてこういった.

◆「立君の政治」は、「人主が愚民を篭絡するの一欺術」 (天皇制は、支配者がバカな国民をダマスための手段だ)
(福沢諭吉全集 第5巻271ページ)

◆彼は、そのリクツを実行して、台湾・朝鮮の植民地化、対中侵略戦争を教育・宣伝して、日清戦争では自分の新聞の発行部数を大いに伸ばして大もうけをした!

◆彼の教えは、日清・日露戦争から、対中侵略15年戦争・太平洋戦争を通じて、2009年の現在にいたるまで続いている.(指導者としての立場は、一万円札の肖像として認

められている)

日本では、まだ諭吉の教え子たちが「人主」として生きている.

福沢諭吉は、天皇制を「天皇制は、国民をだますための手段」だと理解していました.

「立君の政治」は、人主が愚民を篭絡するの一欺術」

(天皇制は「バカな国民をだますための一つの詐欺的な手法である」)という人がいるが、「それに対しては、『政治を知らない者がいうことだ』と答えればよい」と教え

ています.

(1881年「帝室論」福沢諭吉全集第5巻271頁)

国を富まし、強くするためには、台湾・朝鮮の植民地化だけではなく、対中国侵略こそ「本命」であると主張していました.

「支那と戦に及ぶこともあらば、・・・真一文字に進で其(その)喉笛に喰付くこと緊要)・・・北京是なり」

(1882年「喉笛に喰付け」全集第8巻260ページ)

中国の領土、資源、労働力をすべて奪いとれ、これが1882年に彼が教えたことです.

国を強くするには、命を捨てろ、天皇のために死ぬことは美しいことだ.

「国のためには財を失ふのみならず、一命を抛て惜しむに足らず」
(1873年「学問のすすめ」第三編 全集第3巻43ページ~)

(そして、諭吉を含む一部の者が大金持ちになるのです)

日本政府と国民は、この教えを忠実に守り、50年後(1931年)対中国侵略15年戦争に突き進み、太平洋戦争を経て、2009年の現在、諭吉を最高額紙幣の肖像として、毎日拝

んでいます.このように、明治以来「ダマシのシステム」はつづいています.

「天は人の上に・・・・・と言ったのは福沢諭吉では???」

★ 無理はありませんね。 例えば、手軽なネット百科事典として、誰もが利用する「ウィキペディア」にもこのように書かれています。

天賦人権説(てんぷじんけんせつ)とは、すべて人間は生まれながら自由・平等で幸福を追求する権利をもつという思想。ジャン=ジャック・ルソーなどの18世紀の啓蒙思

想家により主張され、アメリカ独立宣言やフランス人権宣言に具体化された。日本では明治初期に福澤諭吉・加藤弘之らの民権論者によって広く主張された。

★ しかし、これは間違い。確かに福沢諭吉も、加藤弘之も、明治初期の啓蒙家として、天賦人権の思想を紹介はしていますが、二人とも「天賦人権論者」ではありません

。加藤弘之などは、逆に社会進化論の立場からそれを否定しておりますし、福沢諭吉も加藤弘之の社会進化論に近い”学問至上主義”の立場、天賦人権などには否定的です

★ それをしっかり確かめるために、是非、福沢諭吉の著書『学問のすすめ』を原文で読んでみて欲しいです。巻頭第1ページ冒頭にある、その行を引用してみましょう

「天は人の上に人を造らず人の下に人を造らず」と言えり。

されば天より人を生ずるには、万人は万人みな同じ位にして、生まれながら貴賤(きせん)上下の差別なく、万物の霊たる身と心との働きをもって天地の間にあるよろずの

物を資(と)り、もって衣食住の用を達し、自由自在、互いに人の妨げをなさずしておのおの安楽にこの世を渡らしめ給うの趣意なり。

されども今、広くこの人間世界を見渡すに、かしこき人あり、おろかなる人あり、貧しきもあり、富めるもあり、貴人もあり、下人もありて、その有様雲と泥との相違ある

に似たるはなんぞや。その次第はなはだ明らかなり。

『実語教』に、「人学ばざれば智なし、智なき者は愚人なり」とあり。されば賢人と愚人との別は学ぶと学ばざるとによりてできるものなり。また世の中にむずかしき仕事

もあり、やすき仕事もあり。

そのむずかしき仕事をする者を身分重き人と名づけ、やすき仕事をする者を身分軽き人という。すべて心を用い、心配する仕事はむずかしくして、手足を用うる力役はやす

し。

ゆえに医者、学者、政府の役人、または大なる商売をする町人、あまたの奉公人を召し使う大百姓などは、身分重くして貴き者と言うべし。

         福沢諭吉著 『学問のすすめ』

★ 確かに福沢諭吉は「天は人の上に人を造らず人の下に人を造らず」という有名な言葉で、この論文を書き始めています。

大事なことは、それに続く「と言えり」の4文字。「と、言われている」 が、しかし・・・と、以下に続いています。

福沢諭吉が言いたいのは、その先です。 後の文章は、全部、「そうではない」と、その理由を述べています。

◎ 現実は、そうじゃない、賢人愚人、貧しき者、富める者、貴人下人・・・雲泥の差があることは明白。それには理由がある。と言うのです。

つまり人間の優劣は学問によって決定される。優れたものが劣っているものを支配するのは当然のこと。

◎ (天賦人権のような考えより) 我が国で平安時代から子弟の教育に用いられて来た教科書「実語教」にあるように、賢者と愚人の差は、学ぶか、学ばないか、によっ

て定まる。 肉体労働と知的職業に別れるのもそのためだ。

◎ だから医者、学者、政府の役人、富める商人、大地主などは、高い身分の貴人なのだ。

と、そういう論理を展開しています。 

天賦人権論の先駆者どころか、その敵である「社会進化論」の側に立つ主張者ですね。一般に信じられている福沢諭吉像とは全く逆です。 

学問による”弱肉強食” 能ある者が能乏しき者を支配するのは当然、と言っているのです。

★ 「・・・・と言われているが、そうじゃない」と、引用されている「・・・・」句が、短絡にが本文から独立し、しかもその引用句が引用者自身の言葉として一人歩き

。 誰も正さないうちに、いつの間にか”故事成句”に成熟して熟語化し、戦後の民主主義の御代になると、爆発的に流行し始めた各種の「人権論」講座の枕詞に用いられ

る。 

そして我が国における人権論の先駆者として、疑われることもなく君臨し、社会の通念にまでなる。

★ 言葉としては誰もが知っている”社会常識”。 

だが、それを口にするほとんどの人が原文を読んだことがない。

そして間違った”偶像”が信奉され、もはや、誰も疑うものがない・・・・思えば、コワイハナシです。

★ そこで言いたい私の「学問のすすめ」は、故事成句を使うなら、必ず原文を読んで、その真意を確かめよう。 私の大学の恩師は「読書とは師との向かい合いである」

と教えられました。その大切さを、今、思います

安川寿之輔さんが、「「暗い昭和」につながる「明るくない明治」」と題する講演をされた。

1.福沢諭吉の天賦人権論の虚実

 「明るい明治」と「暗い昭和」を対置する司馬遼太郎の歴史観は、近代日本を「明治前期の健全なナショナリズム」対「昭和前期の超国家主義」と捉える丸山真男の二項

対立史観をわかりやすい表現に言い換え、踏襲したものである。そして、その丸山が明治前期の健全なナショナリズムの代表格として評価したのが福沢諭吉の天賦平等論で

あり、一身独立論であった。

 しかし、福沢の「天は人の上に人を造らず人の下に人を造らず」というフレーズは、「・・・と云へり」という伝聞態で結ばれていることからわかるように福沢自身の思

想を表したものではない(アメリカの独立宣言を借りたことばであった)。

丸山氏はこの点をすっぽり落としている。

「万人の」という意味では後掲の福沢の天皇制論に見られる愚民籠絡論や、ここでは紹介できないが工場法反対論にみられる貧困市民層に対する蔑視の思想、家父長制的な

女性差別論などは、福沢の人間平等論の虚実を示す典型例といえる。

こうした福沢の天賦人権論の虚実を精緻な文献考証を通じて徹底的に立証した点で安川さんの研究には特筆すべき価値があると感じた。

2.福沢諭吉の「一身独立論」の変節

 福沢が『文明論の概略』の中で、「人類の約束は唯自国の独立のみを以て目的と為す可らず」、「一国独立等の細事に介々たる」態度は「文明の本旨には非ず」という正

しい認識を記していた。(もっとも、順序としては「先ず事の初歩として自国の独立を謀り、(一身独立のような)其他は之を第二歩に遺して、他日為す所あらん」と述べ

、「自国独立」優先の思想を明確にしていたが)。

 また、福沢は自ら、アメリカ独立宣言を翻訳するにあたって、「人間(じんかん)に政府を立る所以は、此通儀(基本的人権のこと)を固くするための趣旨にて、・・・

・・・政府の処置、此趣旨に戻(もと)るときは、則ち之を変革し或は倒して、・・・・新政府を立るも亦人民の通儀なり」と訳し、人民の抵抗権、革命権を正当に訳出・

紹介していた。

 しかし、かく紹介する福沢も自分の思想となると、「今、日本国中にて明治の年号を奉る者は、今の政府に従ふ可しと条約(社会契約のこと)を結びたる人民なり」と記

して国家への国民の服従を説いた。

 さらに、その後、自由民権運動と遭遇した福沢は1875年の論説において、

「無智の小民」「百姓車挽き」への啓蒙を断念する

と表明し、翌年からは宗教による下層民教化の必要性を説き、

「馬鹿と片輪に宗教、丁度よき取り合せならん」

という人間蔑視の思想を憚りなく公言するに至った。こうして福沢は啓蒙期の唯一の貴重な先送りの公約であった「一身独立」をも放棄したのであった。

 ところが丸山真男は、福沢自身が優先劣後の区別をした一国独立と一身独立の議論の実態を無視し、さらにはその後の福沢が一身独立の思想を放棄した現実を顧みず、個

人的自由と国民的独立の見事なバランスと言い換え、両者に内在する矛盾、軋轢――後年の福沢の一身独立論を変節に導く伏線となる要因――を無視して、福沢賛美の根拠

に仕立て上げたのである。

3.福沢の変節の極みとしての神権天皇制論

 安川さんの講演の中で開眼させられた一つは福沢の天皇制論に対する言及だった。福沢は『文明論の概略』の第9章までの記述の中では、たとえば、「保元平治以来歴代の

天皇を見るに、其不明不徳は枚挙に遑(いとま)あらず」と記し、「新たに王室を慕うの至情を造り、之(人民)をして、真に赤子の如くならしめんとする」のは「頗る難

きこと」と述べて、天皇制に批判的な考えをしていた。

 ところが、福沢は1882年に「帝室論」を書く頃には天皇制論を大転換させ、「帝室・・・・に忠を尽くすは・・・万民熱中の至情」などと言いだした。これについて、福

沢は国会開設後の「政党軋轢の不幸」に備えて人心の軋轢を緩和する「万世無欠の全壁」たる帝室の存在が必要になったと説くとともに、「其功徳を無限にせんとするが故

に」帝室は日常的には政治の外にあって下界に降臨し、「一旦緩急アレハ」天下の宝刀に倣い、戦争の先頭に立つよう説いた。

 ところが、丸山真男は福沢が日常的にはと断って説いた皇室=政治社外論を一般化し、福沢が「一貫して排除したのはこうした市民社会の領域への政治権力の進出ないし

は干渉であった」と誤解したのである。

4.福沢のアジア侵略思想の歩み

 1880年代前半に福沢が『時事小言』、「東洋の政略果たして如何せん」などにおいてすでにアジア侵略の強兵富国  政策を提起していたが、日清戦争が近づいた1894年

に書いた論説「日本臣民の覚悟」では、

「我国四千万の者は同心協力してあらん限りの忠義を尽くし、・・・・事切迫に至れば財産を挙げて之を擲つは勿論、老若の別なく切死して人の種の尽きるまで戦ふの覚悟

を呼びかけた。ここに至って、福沢のかつての一身独立論は国家への滅私奉公の前に完全に呑み込まれ、跡形なく消失したといえる。

 また、これに続けて福沢は、

「戦争に勝利を得て・・・・吾々同胞日本国人が世界に対して肩身を広くするの愉快さえあれば、内に如何なる不平等条理あるも之を論ずるに遑あらず」

と公言して憚らなかった。

 さらに、福沢は旅順の占領も終わり、日清戦争の勝利が見えてきた1895年1月に書いた論説(「朝鮮の改革・・・・」)において、

「主権云々は純然たる独立国に対する議論にして、朝鮮の如き場合には適用す可らず。・・・・今、日本の国力を以てすれば朝鮮を併呑するが如きは甚だ容易にして、・・

・・・」

と記し、その後の韓国併合の可能性を予見するかのような主張をしていたことに安川さんは注目を喚起された。

 こうした福沢の言動は安川さんも指摘されたように、『坂の上の雲』において司馬が日本にによる朝鮮出兵を「多分に受け身であった」と記しているのがいかに史実に悖

る虚言かを、同時代人の言説を通して物語るものといえる。 

また、NHKは『坂の上の雲』の第一部で毎回、冒頭に「まことに小さな国日本が」というフレーズを流したが、上の福沢の言説は当時の日本が少なくとも対朝鮮との関係

では「小国」どころか、何時でも朝鮮を呑みこめる国力を持った強兵富国の大国であったことを意味している。

植民地として統治された相手国の認識を等閑に付して、武力で近隣国を占有した自国を「小さな国」などと呼号するのは、過去に自国が犯した罪に対していかに無邪気かを

物語っている。

5.福沢評価をめぐる明治の同時代人と戦後の「進歩的」論者の間の大きな懸隔

 私が安川さんの講演から(正確には安川さんの後掲の3部作から)感じた福沢評価をめぐる明治の同時代人と戦後の「進歩的」論者の間に大きな懸隔が生まれたのはなぜか

ということを考えておきたい。

 まず、安川さんの資料から同時代人の評価として私の印象に強く残った論評を2点だけを紹介しておきたい。

 吉岡弘毅(元外務権少丞):

「我日本帝国ヲシテ強盗国ニ変ゼシメント謀ル」・・・・のは「不可救ノ災禍ヲ将来ニ遺サン事必セリ」

 徳富蘇峰:

「主義ある者は漫りに調和を説かず。進歩を欲する者は漫りに調和を説かず。調和は無主義の天国なり」

 福沢が執筆した(『時事新報』の社説等を含む)全著作を吟味する限り、同時代人の評価が適正な福沢評であることは否めない。

にも拘わらず、それと対極的な評価があろうことか、戦後の「進歩的」知識人の間に広まった理由は、安川さんが精根込めた考証で明らかにしたように、

丸山真男の福沢誤読――『文明論の概略』など初期の著作のみを題材にした雑駁な読解に依拠し、

福沢の政治論、天皇制論、アジア統治論などがもっとも鮮明に記されたその後の論説を顧みない文献考証の重大な瑕疵――

とそれに多くの「進歩的」知識人が事大主義的に追随したことにあったといってよい。

 かくいう私も丸山神話に侵された一人だった。3月20日に私の退職送別会を兼ねて開かれたゼミのOB&OG会に参加した第1期生がスピーチの中で、夏休みのレポート

課題として私が丸山真男『『文明論之概略』を読む』を挙げたことを懐古談として話した。自分では忘れていたが、そう言われて記憶が蘇ってきた。2次会でそのゼミOB生

と隣り合わせ、今では自分自身、福沢に対する見方がすっかり変わってしまったことを釈明した。

 戦後日本の「民主陣営」に浸透した丸山神話は、過去のことではない。

権威主義、事大主義が今日でもなお「進歩的」陣営の中でも、陣営の結束を図るのに「便利な」イデオロギーとして横行している現実が見受けられる。

しかし、そうした個の自律なき結束は、陣営の外にいる多数の市民の支持を得るのを困難にし、長い目で見れば破綻の道をたどる運命にある。だから私は楽屋落ちの議論や

個人の自律を尊ばない組織や運動を拒むのである。




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